#14 イップスとホームラン
球春到来ですね。
春の高校野球選抜が始まり、プロ野球も開幕し、メジャーリーグももうすぐ開幕することに胸が躍っています。
私は小学校から大学まで11年ほど野球に本気で打ち込んできました。
ですので、甲子園で行われる高校野球の中継を見るたびに、自分の学生時代の記憶が蘇ります。
体格に恵まれながらも小学校の時点で肘を痛めてしまい、ボールを投げるのが怖くなる「イップス」に長い間悩まされました。
思い出の詰まった我が野球人生をセンチメンタルに浸りながら振り返ってみたいと思います。
Index -もくじ-
- 小学校時代
- 友達に誘われて入った少年野球チーム
- 肘を痛め途中で退団
- 中学校時代
- バスケ部に入るつもりが。。。
- 野球部のしきたり
- ボールが手から離れない
- 強豪校からの推薦も地元の進学校に
- 高校時代
- 秋からチームの3番
- エンドランのサインでホームラン
- ファーストストライクから振れますか
- イップスになった経緯と克服法
- 大学時代
- 木製バット
- 潮時を悟る
- さいごに
1. 小学校時代
1. 友達に誘われて入った少年野球チーム
小学校3年のときに休み時間に野球をするのが流行っており、友達の一人に誘われて地元の少年野球チームに入ったことが野球人生の始まりでした。
卒業時には180cmまで身長が伸び、でランドセルを背負った短パンの少年はもはやコスプレのようでした。
子供料金を疑われることは星の数ほどあったので、父は途中から諦めて大人料金を払ってくれていたように思います。
小学校の時点でソフトボール投げ50m, 握力も52kg, 背筋も130kgあり、100mも13.5秒で走れるくらい身体能力に恵まれていました。
2. 肘を痛め途中で退団
野球を初めて1年目はボールがバットにうまく当たらず、4年生の時は打てた記憶があまりありません。
悔しくて、朝練をしたり、父にトスバッティングの練習をしてもらったり、チームでの全体練習以外でひっそり練習を続けているうちにだんだん打てるように。
守備の方は、我ながら強いボールを外野から返球できていたので、5年生からはピッチャーとキャッチャーをさせてもらえるようになりました。
ただ、そこでフォームを気にして投げることができていれば、肩ひじも壊さずピッチャーとして生きていくこともできたのかなと思います。
強いボールが投げれることが嬉しくて肩ひじに負担のかかるような投げ方を繰り返しているうちにあっという間に痛めてしまいました。 将来有望の良い子のみんなは、基礎を大事にケガをしないようなフォーム作りから始めましょう。
そんなこんなで、5年生のおわりには肘の軟骨がぐちゃぐちゃになってしまい、野球からいったん離れることになりました。ちーん。
2. 中学校時代
1. バスケ部に入るつもりが。。。
身長が高かったことと、好きな先輩がバスケ部にいたこと、そして漫画「スラムダンク」を読んだこともあり、中学校にあがればバスケ部に入ろうと決めていました。
しかし数奇なことに、私の入学した年だけ新入生はバスケ部に入部することができず。理由はバスケ部顧問の先生が転勤になり見てくれる先生がいないからとのこと。そんなことある?と思いながら、結局野球部に入ることになりました。
2. 野球部のしきたり
野球部顧問の先生は中学校審判部長。大阪中学校野球界では有名な雰囲気のある先生でした。怖さも厳しさもあり、年間で年末年始以外は毎日練習を見てくれる本当に素晴らしい先生でした。
しかし先輩の中に鬼がいました。私が1年の時の3年生が怖すぎで、体罰など今では完全アウトのやつがまだぎりぎりあった時代で、もう早く引退してくれと1年全員で祈ってました。
あとは、これもまた今ではあり得ないようなことですが、練習中に水が飲むことが許されてませんでした。夏はいつも脱水症状になりかけるので、飲める限界まで水を飲んでから練習してました。。
秋になり新チームになってからはセンターで5番という場所を貰えました。新チームになって嬉しかったのは尊敬する3人の先輩がいたことでした。その3人は野球もうまく人柄も素晴らしく、その3人に追いつきたくて毎日野球をしていました。大阪の区大会では優勝し、大阪でも強いチームの一つになっていました。
そんな中、イップスにかかってしまいました。
3. ボールが手から離れない
野球でいうイップスは、ボールを投げるのが怖くてコントロールが定まらないことを言います。私の場合はさらに重傷で、ボールが手から離れない時期がありました。
肘を痛めた後、投げ方がわからなくなってしまいました。暴投が怖く、腕を痛めるのも怖くなりボールを投げることが怖くなってしまった精神的な病です。中3になって克服できたかのように思いましたが、高校に入ってからまた再発し私を大いに苦しめました。
4. 強豪校からの推薦も地元の進学校に
勉強もしっかりするというのが父との約束でもあり、自分の中でもけじめだったので勉強は自然とやる習慣が身についていました。できるだけ放課後や休日は野球の練習にあてたかったので、授業はとにかく集中していたことを覚えています。高校進学の時には大阪桐蔭やPL、履正社などから野球推薦のお話がありましたが、地元の進学校へ行くことに。文武両道でも東大からプロに行った選手はいて、勉強しながらでもできないことはないという思いがあったのと、私立はお金がかかるということ、そして強豪私立野球部のいじめの噂がどこまで本当かわからず、すでに中学でそういう場面を見てしまったのもあり行くのをためらった部分もありました。
3. 高校時代
1. 秋からチームの3番
入学して初めて迎えた夏の予選。私は炎天下の中、学ランを着てスタンドから応援していました。
汗はとめどなく流れ声がかれるまで声援を送っていました。応援してくださってる方の有難さが身に沁みます。レギュラーの選手にはそれぞれ応援歌があり、代々4番に引き継がれる応援歌というのもありました。2年後にその歌で声援を送ってもらえたことは素晴らしい思い出の一つです。
そして1年生の夏から秋。新チームになってからバッティングをアピールできる機会があり、その秋からチームの3番に座らせてもらえるようになりました。しかし、同時にまたここでイップスが再発動。暗黒の時代に突入しました。先生やチームメイトからアドバイスも受け、いろんな投げ方を試しましたがうまくいかず。試行錯誤の日々が2年続きました。暴投が怖くて力を抜いて投げるたびに、グラウンド全体にとどろく声で監督さんに怒られました。今だから笑えますが、対外試合で試合前のノックが本当にらいつーでした。
2. エンドランのサインでホームラン
バッティングでも少し不調になった時があり、ボール球を振りたくないせいかバットが振れなくなることがありました。その時は監督さんのエンドラン(1塁走者が盗塁し、バッターはボール球でもバットに当てて転がすことで進塁を助ける戦法)のサインがきっかけでスランプから立ち直りました。今まで自分にエンドランのサインが出たことがなかったのですが、無理やりバットを振る状態にさせてくれたことでバットが出て、なんとその打った球がホームランになってしまったのです。
3. ファーストストライクから振れますか
高校時代の監督さんの教えは一球目からフルスイングすること、最初から思い切ったプレーをすることが大事だ、ということでした。とりあえず様子見ようという姿勢の奴は使えんと言っていたのを覚えています。ボール球まで振ってしまっては本末転倒ですが、選球眼をつけてストライクをどんどん振っていくことが打率を上げるのに最も合理的だと思います。
そして自分の中で心掛けたことは、手を抜いて練習をしないこと。当たり前ですがスーパー大事だと思います。素振りを何百回もしたとしても練習用のスイングでは意味はないと考えていました。一振り一振り試合でするスイングと同じ次元と集中で、ピッチャーのボールをイメージして振ること。野球により多く時間を使える私立のライバルに負けないために、とにかく質を高めることだけは常に意識していました。
その甲斐あってか、高校時代はホームランを18本打つことができ、その中の2本はプロに指名がかかった投手から放てたものでした。
4. イップスになった経緯と克服
自分の暴投のせいで試合に負けてしまったという経験からイップスになることが多いようですが、
私の場合は小学生で肩肘を故障してしまったことと、HSP(Highly sensible person)という気にしすぎる性格だったこととが原因だったように思います。
ある日、テレビ番組で元巨人の桑田真澄さんが投げ方の説明をされていて、その投げ方が自分にしっくりきたのがあって大きく改善しました。
その投げ方はいたってシンプルです。シンプルイズベストです。
まず軸足に体重を乗せ一本足で立ちます。これが重要です。
そして123のリズムで投げるのがコツです。
1で両手を横から上げ、2で体を回転させ、3で手を振る。
混乱してどうしたらいいかわからない当時の私には、非常にわかりやすい投げ方でした。
そして中学時代も高校時代も自分が3年生になると改善したころからみると、先輩がいない環境が良かったのかもしれません。
5. 大学時代
1. 木製バット
高校野球までは金属バットですが、大学野球からはバットが木製に。大きな違いは、金属のほうが飛距離が出ることと、そして木は衝撃で折れるということ。バットは折れてしまうと自費で買わないといけません。スポンサーがついてくれていれば話は別ですが、いち大学生の自分にとって1本1万円前後するバットがぽんぽん折れたら嫌だな、というのが潜在意識にあり、バッティングを少し崩していったのかなという気はしています。
2. 潮時を悟る
そして腰と肩がついに限界を迎えたことも引退を決意した原因の一つです。肘だけでなく慢性的に中学校から痛めてはリハビリをしてきましたが、難しいところまできていました。
さらに終止符を打ったのは、甲子園に出たたり各高校の主力級たちしかいない世界のレベルの高さです。自分は負けないという気概で入りましたが、150kmに変化球を混ぜられてくるピッチャーを見て、これはなかなか打てないなと思ってしまったことも野球を辞める一因になりました。
プロ野球選手になれないと感じてからは、すぐに野球を辞める決断をし、違う夢に向かって歩き始めました。そこの切り替えは早かったように思います。
6. さいごに
成功体験と挫折を味わえたこと。
一つのことに打ち込んで長く続けられたこと。
野球をさせてもらった両親には感謝しかありません。
甲子園やプロの舞台で活躍している姿を見ていると、どれだけ練習をしてきたのかも見えてきます。いいプレーを見ていると気分が良くなるので、ついつい野球中継やニュースに目が行ってしまいます。
野球には情熱を注いできたので、まだまだ語りつくせれない思い出の試合や練習はたくさんありますが、また夏の甲子園が始まる頃に思い出にふけってみようかなと思います。